宮元輝氏の「流転の海」シリーズ(まだ未完なのが残念ですが・・)の第四部から。
この作品は、子ども(作者:伸仁)から見た父(松坂熊吾)の生き様がテーマです。熊吾の生き様そのものが魅力ですが、随所に含蓄に富んだ物事の見方や考えが出てきます。
今回、納得したのは
「自分の自尊心より大事なものを持って生きにゃあいけん」と9歳の息子に、「今は分からなくともいい、頭に入ったことは、いつか何かの拍子に思い出して、何らかの指針となることがくるだろう」と、覚えさせるところです。
長くなりますが、引用します。
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釈迦が自分の弟子の一人である提婆達多(だいばだつた)を並みいる人々の前できつく叱り、汝は愚人なり、人の唾を食らう者なり、と辱めたと言う。
提婆達多は弟子の中でも優秀で、頭もよく、法論にも長け、才気も優れていたが、内に邪悪な野心も隠していた。釈迦はそれを見抜いて叱ったのだという。
人前で恥をかかされた提婆達多は、自分に非があるならば、釈迦はどうして自分だけにそっと言ってくれなかったのかと怒った。
なにもあえて満座の中で恥をかかさなくてもいいではないか。
こうなれば、俺は釈迦に敵対し続けてみせる・・(中略)・・悪業の限りをつくして地獄に落ちる。
(最初この話を聞いたとき)
・・(中略)・・人間だれしも自尊心というものがある。人間は感情の動物だという。
・・(中略)・・なにもあえて人前で化けの皮をはがさなくても、二人きりの時に耳に痛い忠言をあたえればいいではないか。
(と思った熊吾ですが、自分が叱った何人かに恥をかかせてきたことに気がつき、そこから、釈迦の話に考えが及ぶのです)
釈迦はなぜ提婆達多を満座のなかで叱責し・・(中略)・・
釈迦、はそれによって人間の自尊心がどれほど傷つくか十分すぎるほど知っている。
「提婆達多よ、どうだお前の自尊心は傷ついたであろう。さあ、これからどうする。私に敵対し教団に災いを生し、誓い合った大きな目的を捨てていくのか。
我々の目的とは何だ。いかなる障害や弾圧にも耐えて、仏教を流布し、衆生を導き、救済することが目的ではなかったのか。
そしてお前は、その果てしない戦いに参加することを誓って、私の弟子となったのでは無いのか。
それなのに、自尊心のために誓いと大目的を捨てるのか。
そうか、お前には自尊心以上に大切なものはなかったということか・・・(中略)・・」
己が目指そうとしているものが大きければ大きいほど、自分の自尊心などは取るに足りないものになっていくはずだ・・(中略)・・
自分の人生に、目指すべき大きな目的を持っていない人間の自尊心を傷つけてはならないのだ。
釈迦が、提婆達多を人前で恥をかかせ、とりわけ強固な自尊心をあえて傷つけたたのは、大目的に向かうために、提婆達多という人間を鍛えなければならなかったからだ。
(大目的を持たない人間を)人前で叱り、その自尊心を傷つける必要などどこにもない。ただ、逆恨みを買うだけだ・・・。
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自分は自尊心に負けない大きな目的を持て
自尊心を傷つける必要のない人の自尊心を傷つけてはいけない
この2つ、心していきたいと思いました。